くろねこ自由気ままな日記

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あれから10年の月日が流れました

東日本大震災から10年が経ちました

大震災関係の番組が多くなるこの季節。
今年は10年目ということで、大きなイベントなども計画されていましたが、新型コロナの関係でイベントも縮小や中止などに追い込まれているのが、とても悲しいです。

唯一、盛り上がったニュースは、マー君楽天イーグルスに帰ってくることでしょうか。

今回、自分も東日本大震災に対する思いがあり、
2年前の2019年5月に、宮城県の荒浜地区に行った時のことを書かせていただきます。

 

2011年3月11日

あのとき、自分は新潟駅におりました。
震源地からかなり離れているものの震度5クラスの揺れに襲われました。

情報が錯そうし、電話は不通。
TVから流れてくる情報は東京の被災状況ばかり。
家族全員ばらばらの状態の時間帯(平日の午後3時過ぎ)
もちろん、誰とも連絡がつかない。
引き続き入ってくる情報は東京(首都圏)の被災状況

情報が無く、家族の誰とも連絡がつかない。
これほど怖い経験は初めてでした。
でも、どうにもなりません。祈るしかありません。

その時、携帯(当時はガラケー)メールで、運用を担当しているお客様のネットワーク監視メールが届く。

ネットワークダウンの検知メールで、メールそのものも遅延している。

ダウンしたのは、水戸、仙台、盛岡、秋田、青森。
水戸以外の関東地区はダウンしていない。

これを見て、東北の太平洋側で地震が起きたと思いました。

電話は相変わらず不通、メールの遅延はますますひどくなっている状態です。

停電はしていなかったので、TVが唯一の情報源です。

時間の経過とともに、被害の多くは宮城県福島県岩手県に集中しているとの状態でした。
やがて、津波の情報が。

 

次の日(2011年3月12日)、東京に戻る手段を必死に探し、高速バスが出るとのことで、朝一から高速バスターミナルに向かいやっとの思いでバスに乗車。
池袋に到着したのは19時近かったと思います。

バス移動中に、息子からメールが入り、
全員無事!
息子たちは地震直後に自宅に向かい途中の学校みたいな施設で夜を過ごしたとのこと。

よかった。

今日中に帰宅できると返信。

帰宅したのは21時近かったと記憶してます。

欲しい情報が手に入らない。その情報が家族の安否にかかわること。
こんなに怖くて不安になったのは、これが初めてでした。

東北との関わり

東日本大震災で特に影響が大きかったのは仙台の拠点。

古い建物は非常に危険な状態で、しばらくの間、完全に業務が停止していました。

その業務を一刻も早く復旧させるために多くのお手伝いをさせていただき、東京・仙台間を何度も行き来しました。

自分にできること、ITに関係する者としてできることは、
情報を必要な時に伝達できるよういち早く復旧することだと思いました。

10年経った今も復興できていない箇所がたくさんあると思いますが、
少しずつ街がきれいになっていく姿を見て、少しうれしくなったのを覚えています。
特に、仙台駅の足場が取り外されたときは、仙台の象徴が戻ってきた感じがしました。

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仙台駅 美しいです

震災遺構 仙台市立荒浜小学校

2019年に仙台に行く用事があったので、1泊追加して、震災の特に被害が大きかったところを目に焼き付けることにしました。

実のところ、もっと早くに行こうかと何度も思いましたが、
その惨状を目の当りにしたら壊れてしまいそうな気がして怖くて行けませんでした。

そこで向かったのは、荒浜小学校です。

あの日、街全体が大津波に襲われ水没。

多くの方が小学校の屋上に避難したあの荒浜小学校です。
インターネットによると、震災遺構として保存されているとのこと。

仙台駅から地下鉄東西線で終点の荒井駅に向かいます。

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地下鉄東西線 仙台駅

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荒井駅に向かいます

しばらくして、終点の荒井駅に到着です。

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荒井駅は地上駅でした。
ここから車両基地までの線路が続きます。

駅からの交通手段は見つからず、徒歩で移動することに。
距離としては4km程度でしょうか。一時間程度、Google mapを見ながら歩きます。

何もない田園風景をひたすら歩いていると、建設中の「非難の丘」が見えてきました。
あの日、非難の丘があれば、もっと多くの人が命を落とさずに済んだのでしょう。
非難の丘以外のも、津波避難用の櫓のような建造物も何個かありました。

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あの日、非難の丘があれば

海岸が近づいてくると、海岸線に沿って大きな堤防を造ってました。
ダンプカーが何台も行き来しており、巻き上げる土埃がものすごいです。

その堤防付近に、震災遺構 仙台市立荒浜小学校 がありました。

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震災遺構 仙台市立荒浜小学校

2Fに上がります。
床から40~50cmくらいの高さのことろに「津波到達ライン」と掲示されてました。

今、明るい状態で、津波は「過去」の記録として見ているので・・・

あの日、真っ暗な状態で、どこまで津波が上がってくるのかわからず、
家族の安否も取れずの状態だったら、本当に怖かったはずです。

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津波到達ライン

ゆっくり建物内部を拝見し、当時の状況をしっかり目に焼き付けます。

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数多くの資料が展示されています。
動画による説明をありました。

屋上に出てみます。

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雪の降る真っ暗闇の中、命からがら逃げてきた人が過ごした屋上

あの日、雪が降り、命からがらこの屋上にたどり着いた人が、空腹と寒さと恐怖にかられたこの場所。

同じ場所に自分は今立っている。

怖かったよね と涙が出ました。

一通り目に焼き付け、荒浜小学校を後にしました。
(これ以上いると心が壊れそうだったので)

海岸に出てみます。
青い海が静かにそこにありました。

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穏やかな表情の海

近くにはきれいに整備された公園がありました。
ここにも小高い丘が造られてます。

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きれいに整備された公園

5月の風は、まだ東北では少し肌寒く感じます。

来た時とは別の道をとぼとぼ歩いて、荒井駅を目指します。
また、一時間程度、田園風景の中を、今日見たこと感じたことを脳裏に浮かべて・・・

元気をありがとう

震災直後から、いろいろお手伝いさせていただきましたが、
逆に元気をもらっている自分がいました

3/14に仙台に車で向かう際に、
被災地のものには手を出さない(食料は自分たちで準備していく)と

でも、現地に着くと、
みんなが「ありがとう、ありがとう」と「作ってきたから食べて」とおにぎりを。

それは、いただくわけにはいかないと断り続けるも
涙ながらにひとつ食べてもらわないと申し訳ないと。

ありがたく一つだけいただきました。とても美味しかった。
人の心の温かさを感じました。

後日、そのおにぎりを作ってくれた方の家が流されていたということを聞き
大泣きしました。

元気を届けるはずの自分がたくさんの元気をもらってしまいました。
だから、今度はそのたくさんの元気をしっかり届けられる自分でありたいと。

 

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 いつ起きるかわかないし、防ぎようはありませんが、
ここで見たこと聞いたことを次の世代に確実に伝える必要があります。

また、人々が奪い合うのではなく助け合う日本民族の素晴らしさも多くの記録に残っています。

なんか、うまく、まとめられなくてごめんなさい。
今回はこの辺で。 また、東北行ってみたいと思います。

 

 

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